ヨーロッパ〜日本往復日記

2001年から2003年まで二年の世界放浪の旅へ、それからどんどん価値観が変化していく様子をブログに書いています。

彼の事1(お母さんの話も含め)


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今日は私の彼の事について書く。
いつも、日本オタクとかアニメファンとかアニメ会社で仕事とかそんなことしか書いていないけど、興味深いバックグラウンドをもっているので、少しづつ掘り下げて。




私の彼は国籍はフランス人だが、フランス人とルーマニア人のハーフで、生まれはルーマニアだ。

以前書いたけど、お母さんが結構波瀾万丈な人で、ルーマニアで9年過ごしている。その断片的な話をまとめて書いてみようと思う。




ある日、お母さんが、なんと宝くじに当たってしまった。ちょうどそのとき、親戚のおじさんおばさんが
車でルーマニア旅行に行くよという。
じゃあ一緒に行ってみようと思い立つ。
マルセイユ出身のおかあさん、それまで外国は行った事が無かったらしい。


そんな初めての海外旅行ルーマニアで彼の父と出会い恋に落ちる。。。。。これが1969年お母さん19歳、人生の転機。



彼のお父さんの若かりし頃を見ると、かなりの男前。少しジプシーが入ったような目の、くっきりシャープな浅黒いヨーロッパの顔。

彼いわく、ジプシーではないらしいが、その顔立ちからどっかで血は混じっている事は確かだと思う。

この顔はハッキリ妹さんに出ていて、本当に兄弟姉妹かと思うほどのぞくっとする美人さんです。





お父さん家族一家は、プロではないが芸術肌で、お父さんはギターが上手く、絵や彫刻にこっている。
お父さんの妹は、その地域のコンクールで優勝した美声の持ち主、昔録音した歌を聴かせてもらったが、時代が時代ならプロの歌手にもなれたカモと思う。彼の顔はこのおばさん似。お父さんに似ればもっと人生違っていたかもね〜。
それから父方のおばあちゃんはレース編みの名手だ。


帰国後、お母さんはルーマニアとフランスを何度か往復し、ついに結婚。この家族の物語が始まるのである。





結婚当初は本当に幸せだったらしい。全てが手仕事で、乳搾りをして、マキから火を焚いてご飯を作ったりしていた。そんな伝統的な生活は、何もかも新しい事ばかりで、自然は美しく夢の中のような日々だったらしい。



そのころはルーマニアで人々はまだ普通の生活を送っていたという。が、チャウシェスク政権が1971年を気にどんどん変化して行く。


そして、ある日悲劇が訪れる。このお父さんは妻がフランス人たったそんな理由で、スパイ活動の一員にされてしまう。



いままで、芸術家肌でギターを愛し、平凡に暮らしていた人が、いきなりそんな任務を任されてしまった。
(その前はどんな仕事をしていたのかは私はまだ聞いていない)


そんなスパイの仕事はキツい。ストレスからお父さんは少しづつ酒に溺れていくのである。

そのお母さんの生活に変化が起こり出した1974年に彼が生まれる。


たまに暴力を振るう事もあったらしい。幸いに頑張る彼女は姑にとても気に入られて、よく自分の見方になってくれていたと言う。スパイの仕事の辛さを理解し、我慢する毎日を送っていた。




初めて出会ってから9年後、お父さんに浮気相手が居る事を知る。妹も生まれたばかりなのに、相当なショック。



それに追い打ちをかけるように、ある日の事、彼が4歳、彼のお母さんが外で仕事しに出かけたマイナス20度の冬の日。お父さんは酒場へ、子供をなんとその酒場の外で遊ばせて自分は酔っぱらって、子供の事は忘れていたという。

それを近所の人が見つけて家まで連れて来てくれた。その時の様子を今も彼はなんとなく覚えているという。とても雪が綺麗で、舞い落ちる、雪と一緒に遊ぶのに夢中だったと。



それをきっかけになりとうとう堪忍袋の緒が切れ、ルーマニア出国を決意した。もう何も思い残す事は無い。。

当時、彼が4歳、妹が一歳、お母さんの姉が車でルーマニアまで迎えに来てくれ、3人で出国した。1978年。

当時のシャウシェスク政権、政治的に追いつめられたら大変な事になる逃避行だったらしい。




Wikipediaチャウシェスク政権の1978年はこう書かれている。
1978年、ルーマニアの秘密警察セクリタテアの上級幹部であるイオン・ミハイ・パチェパがアメリカに亡命した。陸軍少将でもあったパチェパの離反・亡命は、チャウシェスク政権にとって大きな痛手となり、チャウシェスクは秘密警察の組織・運営の見直しを余儀なくされる。)


なるほど、彼のお父さんはこの秘密警察で働いていたんだね、大変な思いをしていたんだ。


づづく。。。














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