ヨーロッパ〜日本往復日記

2001年から2003年まで二年の世界放浪の旅へ、それからどんどん価値観が変化していく様子をブログに書いています。

彼の事2。。。


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前回の続き。。。

どうやって国境越えしたの?お母さんから何か聞いていない?と聞いてみると。



実は、お父さんが一筆、「子供と妻が一時的にフランスに帰国するのを許可、必ず全員ルーマニアに戻る」
というのを書面にして、申請したらしい、それをルーマニアの国境で、見せて突破した。

共産国家とは言え、DDR東ドイツ)よりはずっと緩やかだね。

DDRでは1970年代には壁が完成して、脱出なんてもう命がけだったからね。



それから、パスポート無しって始めは聞いたんだけど、お母さんに聞いたら、ギリギリでちゃんと作ったんだって。
そうだよね。パスポート無しの複数の国の国境越え、絶対に有り得ない。
ルーマニアからフランスまで車でなんていろんな国の国境渡るからね。







そして、数日間の車での逃避行、無事お母さんの地元、南フランス、マルセイユに到着するのです。その時の様子は4歳ながら
ず〜っと車の中で、大変だったことは覚えているらしいです。
特にマルセイユに到着した時の景色はハッキリ覚えていると言っています。


4歳の子供に、お父さんにそれから会えなくなるとか、政治的な事は解るはずも無く、マルセイユに到着した時は、とても嬉しかったそうです。

政治的なものに犠牲になるというのは、本当に自分の力ではどうにもならない部分が多くて、大変な思いで、子供達を連れ出したんだろうなと思いますよ。





その後は、妹、お母さん、彼と三人で数年間マルセイユで過ごします。

が、また恋多きお母さん、次はマルセイユコルシカ島の人と出会い、コルシカ島マルセイユを往復する日々がはじまるのでした。。。。



当時、まだフランスにはあまり日本のアニメはなかったんだけど、イタリアではすでにいろいろ放送されていた。
コルシカ島はフランス領といえど、イタリアにほど近く、たくさん日本のアニメが見れたんだって!
それで、いつもコルシカ島に行く事を心待ちにしていたらしい。

これが彼の出発点なのね〜。




お母さんの人生が、想像付かない形で、彼の人生に大きく影響を与えていますね。


それで、数年間のマルセイユでの生活の後、1984年にコルシカ島に移住、再婚となりました。

彼が10歳の時でした。




運命の1986年、チェルノブイリ原発事故。


不幸にも2000キロ離れてはいても、コルシカ島は汚染されてしまう。
原発推進のフランス政府はフランスには汚染は無かったと断言したのでした。



コルシカ島は自然と共に生きる島。その後も、地元で絞った牛乳を飲み、チーズを作り、野生のイノシシを食べ、野生のキノコを摘み、自分で摘んだ栗を瓶詰めにして保存食にする生活はまったく変わりませんでした。



それで、その後、どんどん甲状腺の病気や、放射能由来だと思われる病気がコルシカ島で発症してしまうのです。









フランス以外のヨーロッパの国々は、ちゃんと伝えて、人々はちゃんと自分たちで自分の身を守ったそうです。

牛乳も飲まなかったし、野生のキノコもベリー類も長い間食べなかった。

それでも、汚染の結果が出てしまう子供達が居た。



フランスで、脱原発団体に所属してからというもの、放射能由来の病気になったという事を聞く機会がいくつかありました。



3月に脱原発イベントを主催したとき、30年以上フランスに住むある日本女性に会いました。

その当時、自分が被爆しているなんて全くしらなかった。でも、10年ぐらい経った時から、
体が重度のアレルギー体質に変化して、夏には野菜や果物類がほとんど食べれなくなり、娘も病気がちになる。

実はフランスも汚染されていたという事を耳にするようになりたが、詳しい事はあまり知らなかったそうです。


それで、このイベントでフランスの汚染地図を初めて見て、実は自分の住んでいた所がやっぱり汚染されていたというのを、27年目にして知る事になったのです。そのイベントのときに、本人から直接ききました。




彼の話から、また原発の話になってしまいましたが、やっぱり内部被曝がそうとうなダメージになるようです。

皆さん、長い戦いになりますが、食べ物は多くの産地から取り寄せて、食べて下さいね。









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