これ、ずっと前にここに書いたんですが、どこかドイツ大使館がやっているホームページの記事を書かないかと
言われ、これにいろいろ付け足しをして書いてみたんです。思いっきりボツ!
多分没になる可能性高いな〜〜と思って、まあ良いや〜〜本当のことだしって。まあ本当の事でも私の視点は
政府よりじゃなくて、反政府よりナ視点なので。
そこでまあ指定されたのが、〜〜だ。とか言い切りの形。だから文がかなり断定的になっています。
それからシリーズにする予定だったのが、一回目も何も無かった書けど。。。
ここに書いた内容は、すべて私がベルリン在住時代に、ドイツの人々から直接聞いた話や私が体験した話しなんだよ。友人や、友人の友人。それからドイツ語学学校の先生とかね。一部記憶のあやふやな部分は
ネットで調べて、ハッキリした年代を書いていますが、調べたことはほんの少しだけ。まだ人々の記憶に新しい時代だからね。体験者から聞けたんだと思う。長いですがお付き合いください。
ここで公開します。
デモの写真は果て”国って何のためにあるの?”という事で、ベルリンのデモと2007年のG8ロストックのデモを混ぜています。
これからね、ベルリンの興味深い人々の話を書いていこうと思うんだ。
なんてったってベルリンは街も濃いし、人も濃い。私はそんな濃い雰囲気に魅了され2001〜2009年まで通い続けた。
その間4年住んでいたことも。まず一回目は近代史、ちょっと堅い話だけど、ロンドン、パリとは一線を画すベルリンの特有なスタイルを理解するのに歴史の話は不可欠なんだよね。
今回はベルリンの若者文化の経緯を簡単に記していきたい。
第2次世界大戦終了後、ベルリンは勝戦国のソ連、アメリカ、イギリス、フランスなんと4カ国に占領される。
終戦後、まだ情勢は不安定だった。ベルリン市内に大国の兵士が残り、ひしめき緊張状態。また激戦が始まるのか?
市民は不安だった。特にソ連は西地区を封鎖してしまったので、1948年には一年間、飛行機で西ベルリンに食料物資を運んだんだよ。そんな危険なベルリン。市民はどんどんベルリンの外へと出て行った。
ベルリンの外は全部旧東ドツ、その中にぽつんと旧西ドイツの陣地がある。旧西ドイツ政府は何がなんでもその陣地を守りたい。が、市民はどんどん居なくなる。そして旧西ドイツ政府はある案をだす。(以下旧東ドイツは東独、旧西ドイツは西独と記す)
ベルリンに住めば、兵役に就かなくてもいいよ〜〜。
その当時、情勢が危ういドイツで男性の兵役は絶対。兵役に就かなくても良いなんて異例の処置なんだ。
今もドイツ男性は兵役に行くけど、軍に行きたくない人はいろいろな分野の市民サポートする仕事が出来る。
戦争に反対する西独の人々が西ベルリンに移住。特にヒッピーやパンクスや芸術家や活動家やらインテリ層がベルリンに集まることになる。
そして東独でも問題が。第二次世界大戦後、分断したドイツ。理想だった社会・共産主義が自分たちの思うようにいかない・・・。まあ理想を掲げてはいても、ソ連とアメリカの大国二つに牛耳られ、2つに別れたようなもの・・・・。
50年代から東独で大規模な体制に不満をもつ市民がデモを起こすも、ソ連の介入で武力鎮圧。
このときの武力鎮圧を忘れないために、あの有名なブランデンブルク門からの大通りを「6月17日通り」って名前にしたんだよ。このソ連介入の武力鎮圧で世界的に有名なのは、68年の”プラハの春”だよね。
東独でも兵役につかない若者は大学には行けなかった。戦争反対、でも大学で学びたい!。。。。
東独の熱い若者は西ベルリンに移動する。武力鎮圧も東市民にとっての深い傷だ。
壁が作られる以前は東から西に移動が簡単に出来、人々はどんどん移住していった。ベルリンはどんどん 東西のとっても濃い若者たちで あふれて行く。
(この上の人はモデルでもなんでもなくて、1983年のベルリンで活動していた。アーティスト、家を持たず、
自分の作品を作る資材だけを持ち歩いて、転々としていたんだって。多分スクワットを転々としていたのかな。)
そんな中、東独政府は人口流失を防ぐために、ベルリンの壁を作り始める。社会・共産主義の東はもちろんの事、こうして壁に包まれ孤立した西ベルリンも まったく経済的に遅れてしまった。
60年代は盛んに学生運動がヨーロッパ各地に起こる。
そんな中、西ドイツ全土でそれまでひた隠しにされてきた戦争での軍の行動を学生たちが暴き出し、新聞にして配布する活動が起きた。
自分たちの親世代がそんな事をしていたなんて!過敏な若者世代にはショックで家出するる人がたくさん居た。当時の反戦運動のさなか、自分の親があんなひどいナチの活動をしていたなんて本当にショックだったんだと思う。
の東西の熱い若者をベルリンはどんどん受け入れていった。その中で空きアパートを若者たちが占拠し、思想や活動の拠点する、スクワットが登場する。
それが今のベルリン文化の基礎。
ベルリンの壁崩壊後、旧東地区では、国から土地が以前の所有者へと変換された。しかし、戦後のさなかの混乱で証明できるものが無い土地もある。
どんどんスクワット化されてしまう。それに旧西時代、人がどんどん移住してくるからアパートも慢性的に不足していたんだ。スクワットだけじゃく、旧東地区にはたくさん使われていない場がある〜〜。もちろん法的に契約を結んでいるところもたくさんあるよ。
いくつもの社交の場が開かれていた。クラブ、コンサート、映画上映やパフォーマンスなどありとあらゆる種類&レベルの作品の表現の場。それはアーティストとしても魅力。
私が初めて足を運んだ2001年当時、入場無料イベントはたくさんあった。お金を取っても3ユーロぐらいまで、飲み物や食べ物もすごく安い。飲み物50セントとか、食べ物はお皿山盛りで2ユーロとかそんな場所がたくさんあった。
みんなで手作りして、そしてお互いの表現を交換する場、そしてお金が無くても人生を豊かにっていう建前じゃない社会・共産主義的な考え方が実践されていたんだよね。
が、公共の場で音だしをする場合、そしてお酒を売る場合は届出を出さなくてはいけない。
だって、空き地&空きビルをを使う場合もあるだろうし、お酒のライセンス料とかもあるしさ。
ドイツは基本的に公共の場の音規制が厳しい。政府は東西統合直後はこういう活動に目をつぶっていてくれていたようだ。
もともとね、西ベルリンは特別地域だったわけ、だって、人がどんどん他の地域に移住してしまわないように、政府がアレやコレやの特別処置で、西ベルリンに人をとどまらせようと思ったんだからね。
統合税なる税金がかかるようになり、旧東がどんどん整備される中、無法地帯のようなスクワットにもとうとうメスが入る。
2000年前後から取締りが特に厳しく行なわれはじめた。
2002,3年ぐらいには各種イベントも厳しく取り締まられるようになった。2004年くらいまで、今のそれとは違う一種独特の世界がまだ残っていたが、それは最後の残り火だった。
現在のベルリンはというと、まだいくつかの倉庫はアーティストがギャラリーとして使ったり、空き地にはいくつものキャンピングカーやが留まり一種のコミュニティーを形成している場所もあるが、再開発が決まっている場所も多い。
どんどんショッピング街やデパートなどが新たに作られ、商業化はどんどん加速するばかり。
スクワットをしていた若者たちもどんどん少なくなり、家族を持つ世代になっていく。やはり家族を持つと生活は変わる。
私の友人の友人がハウプトバンホフの近くの倉庫をギャラリーとして使っている。彼女たちに言わせると、そこも後2年で終わりだそうだ。
ここはね、こんなベルリンの真ん中でもすごく自然が豊かで、よくキツネなんかが歩いているのよ。再開発されると、この自然も無くなってしまう。
40代でもアーティストとして活動を続ける彼女がなんとなく寂しそうに話してくれた。
だが、今まで培ってきたベルリンの文化はそんなにすぐなくなるもんじゃない。新しいギャラリーはミッテを中心にあちこちに出来るし、新しいクラブやイベントスペースも形を変え、商業的になったがあらゆる地区に出来る。その中でベルリンの評判を聞いて今はヨーロッパ中から若者が遊びにやってくる。
他の大都会に比べまだ居住費や生活費がやすく済むため、アーティストがヨーロッパ各地から集まる。ヨーロッパの大体真ん中にあるベルリンの地の利を生かし、アーティストは物価の安いのベルリンを拠点に、住家はベルリン活動はヨーロッパ全土なんていうアーティストも居る。
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