ヨーロッパ〜日本往復日記

2001年から2003年まで二年の世界放浪の旅へ、それからどんどん価値観が変化していく様子をブログに書いています。

パリでのある一日

最近ちょっとブログから遠のいていました。

フランス語学校が始まってから、学校と脱原発活動と友人付き合いで、パリの生活がよ〜〜やく充実してきました。

ここまで長い時間がかかったな〜〜。(遠い目)



最近はパリの脱原発アソシエイションの他に
「子どもたちを放射能から守る世界ネットワーク」にも参加して、ニュースレター発行担当になりました。

http://www.save-children-from-radiation.org

脱原発を世界に発信する英語版のHPです。主に北米在住の日本人たちが日本語の記事を英語に翻訳してHPに掲載しています。





はてさて今の語学学校、パリにしてはメチャ安で毎日2時間で月220ユーロ。一クラスが20人。
語学学校にしては人数が多い。

(ちなみにベルリンの格安私立語学学校は毎日4時間150ユーロ2005年当時、クラスの人数は15人前後)




そして先生がかなりヤバい。28歳の女の先生。かなりの美人さんです。



ゼロ初級クラスでなめていたのかまったく準備をしていないのが手に取るようにわかる。
前日習った同じ所を初出題のように始めたり、生徒の名前を覚えないので、必然的に同じ人を指す。それも
名前が覚えやすく、出来るスペイン語イタリア語圏の人ばかり。
授業になかなかついて行けない人は全く指さない。アフリカ系のおじさんは週に一度ようやく指されたと思ったら、
おかしな返答、でもこの先生、素通り、すぐ自分で正解を言っておしまい。やばい!





授業中にう〜〜んと次何やろうかと考えて、間があきまくり、頭の中は何しようかと一杯一杯なのが目に見える。
これは必ず使うでしょという教科書のポイントのわかりやすい図などもすっ飛ばす。


そんな授業が1ヶ月以上過ぎ、とうとう私が「先生、お願いがあるんですけど、質問をするときは一部の人だけじゃなくクラス全員に当てて下さい」と最低限これだけは、という事だけ感情を入れずに言ってみた。
そしたら、血相を変え超怒りだす。こっちも真顔で、私だけの意見では有りませんと断言し、かなりの緊張感のある瞬間のバトル。




翌日から、全員当てるようになっただけではなく、ようやく授業の準備を始めて、授業開始後一ヶ月超、よやく初めて自前のプリントを配り始めた。
まあそのプリントもどこかのインターネットの問題をそのまんまコピーし、語彙レベルが全然違うが、
かなりの前進だ。

怒りだしたときは、ほんとこの先生人格的にもヤバいと思ったけど、負けん気が強いのか、反省したのか
授業が大分ましになった。


多分、相当給料が安いんだろうね。だから準備に時間なんかさけるか〜とやさぐれていた時期だったんだろうと想像する。


http://www.campuslangues.com/en



まあそんなヤバい学校でも、クラスの人数が多いおかげか、気の合う友達が見つかり、なんとか学校に行くモチベーションに。

イタリア人山育ちの可愛い元気な21歳。
最近イタリア人と結婚しパリにやってきたエクアドル人25歳



ベルリン時代からもともと年下とつるむ事が多かったけど、こんなに歳の離れた友達は初めてかも。

二人とも若いので元気いっぱい。癒されるな〜。



特にイタリア人の女の子とは何となく気があってよく遊ぶ。
彼女は17歳からエステシャンとしてホテルで働いているので、精神年齢が高いのか。
なんでも、専門の学校には13歳から行きだしたそうだ。は?
すごいね。学校のシステムが全く違う。

実家は北イタリアで山に囲まれた暮らし、実家では山羊とロバと鶏を飼っているらしい。

そんな実家羨ましい限り。






それから、それから、2週間ほど前、フランスのゴールデンウイークの様な一週間の間に飛び石連休があり、
フランス中央部、ヴィシーという歴史ある街の近くにあるウセルという村に一週間滞在した。

実は彼のおじさんが、元ドイツの大学教授で、10年前にフランスの大学にポストを見つけ、
研究者として働き始めた。学会学会で、飛び歩いているらしい。そんな忙しい中、この一週間は私たちにつきっきりで世話をしてくれました。

本当にいろいろな話をしてくれて、面白かったです。

彼の好きなもに一筋集中する性格はお母さん方の血なのだな〜と実感。

そのときの話はまた次の機会に。






275011