先日アップしたビデオ、アレクシェービッチの旅路を見て、人生とは何かと深く思うことがあった。
何か大きなものの被害に会う人々、そして戦争や事故で亡くなってしまう人々には、それまでのその人の生きてきた苦労や
意味や大切さなどはどこかに塵となって吹っ飛んでしまうように感じた。
彼女は映像の中で小さき人々と呼ぶ。
それでも私たちは生を受けたからには懸命に生きて行く。
先日のビデオかなりオススメです。初め2から見て、1を見るほうが噛み締めて見れるかも。
。。。
昔は日本人として一つの同じ国の人間として人々は意識していなかったと何かで読んだ。
ほんの第二次世界大戦の前の話だ。
それもそうだ、昔の国のようなものは藩であって、隣の藩に行くのに手形が必要だったんだから、
そして自分の土地を治めるお殿様がいなくなり、新たな形の権力者が登場。
それも全く敵方だったりすると、人々はどっかからポッと出の自分とは関係のない権力者だと感じただろうに。
その新しい権力者の明治政府の意向でだって、田舎の隅々まで意識改革がされるまで時間がかかる。
方言もだいぶ強く、意思疎通も困難だっただろう。標準語として定められたのが浸透するまで時間がかかるし、
だいぶ日本人としてのアイディンティティも誰かに作られてたものも多いのだなあーと感じる。
私の鹿児島の母方の祖母はもうなくなったけど生きていたら103歳、電話で話すその言葉は全く理解が出来なかったことをよく覚えている。
夏になるとお腰(着物の下に着る巻きスカートのような下着)にトップレスで家や田舎の広い庭を歩いて、近所の人ともトップレスで話していた祖母。
トップレスで近所の人とおしゃべりなんて、今したら頭のおかしい人だと思われるよねー。
そういうことを思うと、今流行りの空気を読むことだって、(私が日本を長い間出ることになる2001年まで、空気を読むなんて言葉はまかり通っていなかったので、私には私が日本から出た後の新しい概念。相手を察する気持ちならわかるよ)
世間様だって、コモンセンスだって作られているんじゃあないのかな〜。
先日、紹介したロシアのノーベル文学賞作家のビデオで
ロシア人も日本人も 抵抗する文化のない人々 と語られていたけど、抵抗する文化がなくなるよう作らされていると私は思う。
ちょっと市民活動をかじっただけで、日本にはスラップ訴訟と言われる、言いがかりの国、または大企業と個人の裁判があるのを知ることになる。
抵抗すると裁判にかけられ500マン円とか罰金を科せられちゃうんだよね。。。。
国の被害に合わない、辛い事情を知らない人はその抵抗する人々を敵視するし。。。
日本で生きて居るんだから、日本の常識に合わせないとと言っているうちは、自分の意思を殺しかねない。
人間は教育の賜物だ。教育は日本の学校だけでなく、日本の常識だけじゃなく、もちろん各家庭地域の教育、そして自分の経験から学ぶこともあるし、
大人になってからも出会いからいろんなことが学べる。
それを総合的に自分で考えて自分の心に素直に従い生きることも
自分の魂を昇華する、人生の深い学びになり、悔いのない人生を送る鍵になるのでは。
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