ヨーロッパ〜日本往復日記

2001年から2003年まで二年の世界放浪の旅へ、それからどんどん価値観が変化していく様子をブログに書いています。

私の人生の経緯

こういろいろ書いている人ってどういう経緯でこうなったんだろうと興味があると思うんですけど、いかがでしょうか。以前書き始めたのですが、途中で終わっているので、はじめからかいつまんで
初めていきます。


よく覚えているのがね、小学校5、6年生の頃、ソビエト連邦のニュースがNHKでよくあったんですよね。うちは父が居ると必ずNHKのニュースを見ている。

それで、レバノンベイルート支局からソビエト連邦のニュースが流れる。現在モスクワはマイナス50度、スーパーに食べ物はなくって。



それでね、私は将来ロシア語を習うって思っていたんですよ。ただそのベイルート支局のニュースを読んでいる人がとてつもなく頭の良い人に思えて。


ロシア語は世界で一番難しい言葉らしい、それでその一番難しい言葉を話して、もちろん英語なんかは当たり前のペラペラでバリバリのキャリアウーマンになる。


まあ幼稚園の頃は、将来は先生になりたいって思っていて。優しくて綺麗な女の先生。



まあ、子供ですから、その時思う最高の人間ってそんなもんです。







留学にも憧れていましたね〜高校時代に留学がしたい!と考えていたのですが、父親と数度衝突、玉砕。家族全体を巻き込んで問題になっていました。

その頃から父との確執も激しくなり、高校を卒業して、浪人時代家出などもしていましたね。一人暮らしの独身のおばさんの家ですが。。。浪人時代もぷらぷら家に帰らない日も多く、男の家に入り浸っていましたね。



このオバさんが、若い頃からホステスで、新宿の外人ハウスに住んでいたのですが、新宿にはもう70年から外人ハウスがあり。何度が母と訪ねた事があります。

70年代の新宿の外人ハウス。。。。押し入れをベットにして上と下に住んで、一部屋を二人で外国人とシェアしていた。。。。。私の家は比較的広い郊外の一軒家で庭付き、父は刑事だったので、

なんかこの生活は物凄く荒れている感じに見えました。


その後、私がティーンの時、おばさんは、ホステスで働くのは疲れたから、何年間か軽トラックを中古で買って、移動花屋をしていたんです。その後、その花屋で貯めたお金で、小さい自分のホステスバーを作って、自分がママとして働き始めました。








私が18歳の時、そんなおばさんの家に転がり込んだりしている。そのおばさんは42歳、新宿のアパートに一人で住んでいて、彼氏は20歳年下。両親ともに

医者で、東工大学の学生でっていつも自慢していました。その彼氏にも良く会っていましたが、背が高い普通の若い男性。母が言うには子供の頃医者の忙しい母親に全く育てられないでいたので、

極度のマザコンでおばさんと付き合っているのかもねって言うことでした。


多分、そのおばさんの影響が無意識に、物凄く大きく影響したのかもしれないですね。




そんな浪人時代を経験して、大学進学はギリギリ。現役時代よりも下のレベル。
でもね、そんな受験に失敗しても、
日本の大学はパラダイスですよ。留学したかった事もすっかり忘れ、もう自分は外国とは縁の無い人間だと思い込み、海外旅行すらしませんでしたね。バンドも楽しかったし。。。でもあきらめの境地と言ったほうがいいでしょうか。どうせ留学は私には無理だから、海外なんて行かなくていいって。全て外国へ行くという行為をあきらめた。
なぜかそういう感覚でした。そして家から出る事だけを考えて仕送りなしのギリギリの一人暮らしから出発しましたからね。


就職、コンピュータソフトウエア会社です。小さな。
私は子供の頃から女が経済的に自立する事が必要と思っていたので。
でも自分が本当にコンピュータ関係に興味があったのは別にして、エンジニアというか手に職を得たかったのですね。
そこで、マズ一年目の社員旅行。私たち入ったばっかりの人たちは行けなかったのですよ。
いいな〜と会社の金で海外旅行か〜と。でも私は給料の全てを生活費とバンドに懸けていたので、
そんな自費で行くなんて考えもしていなかった。


それが2年目の社員旅行でバハマですよ。全額会社持ち。ラッキー。24時間、飛行機3機に乗り継ぎして、
滞在は3日ぴったり73時間でしたね。(よく覚えています。夏時間と冬時間の合間で1時間得した!)
このエピソードはこのブログの初期に書いてあります。暇だったら読んでください。1月11日の日付です。

http://halloo.hatenablog.com/entry/20070111/1190833097


いままで我慢していたというかあきらめていた海外への思い(?)が一気に噴出しましたねこの後。
2週間後に丁度4日の連休があって、それに有給ぶつけて。思い切りました。
5泊7日のニューヨークに行きしました。バハマで会ったメディスンマンがいつでも来ていいよっと行ったので。


そうしたらその後1ヶ月半後に沖縄へ。2000年の大レイブミレニアムパーティーです。
4泊〜5泊ぐらいだったかな。
ここでかなり濃い長期旅行者にたくさん会いました。
(これも初期のブログに詳しく書いてあります。)
7年世界を放浪してたどり着いた地が沖縄だったという男の子、
日本中をヒッチハイクで1年ほど旅している女の子、子供の頃から山の中で暮らして自給自足生活をしていた男性だったり、自称アーティスト男性、女性。
東大出て、世界旅行にはまってそしてこの安宿を経営しているオーナーとか
ここでね、ああこんな人たちがいるんだな〜って。ほんと実感したのです。


その沖縄の2日後にはバリです。インドネシアのバリ。その年は正月休みが以外に長く10日ぐらいまで休日があったので、バリのたび5日か6日間だったかな。


このバリが決定打でしたね。運命の出会いです。確かこの旅のことも書いたと思うんですけど、ブログに。。。(旅のカテゴリーで探してください)

イギリス人のバックパッカー2人組みの女の子とひょんなことからバンガローをシェア。
彼女たちは長い事旅していると言っていました。
あ〜こんな普通の女の子たちがそんな旅して生きているのか〜
だったら私も出来るって。じゃあやろうって。沖縄で会った旅人は余りに濃い人たちだったので、私とは生きてきた世界が違う感じがしましたから。


それから今まで住んでいたアパートをすぐ引き払いました。まだ1年半ぐらいしか住んでいなくて礼金とか敷金とか大枚はたいてもったいなかったなーと思いましたが、お金貯めるにはそれしか無かったですね。

でも、引き払いたいと言ってから2ヶ月が必要でしたね出て行くまで、
その間、例のニューヨークに住むメディスンマンの男性が2,3日に一回電話をくれ、2時間くらい話し、
2回私に彼が会いに来ましたね。それで全く英会話能力が無かった私が、少しづつ英語に慣れて行きます。最初は電話口でタダ2時間ほぼ聞くだけ、ホントあれは訓練になりました。


その後三鷹と吉祥寺の間にあった安外人ハウスに引越し。
46000円で全込み、デポジットだって全額帰ってくるそれも1万円ぐらいでした。
そこは多分昔、寮だったのでしょうね。かなり大きい2階建て建物で、不思議な所でした。

カナダ人の神父が経営しているのですが、一階はホームレスの人がコミュニティーを作っていました。タダで彼らは住んでいました。15人ぐらいいましたね、6畳1部屋に2人組みで。
そこは1日2回の説教があり、それに参加する事で、宿代無料&ただ飯付き。庭には家庭菜園とかありました。
その神父の考えはホームレス支援で、ホームレスの人々がそこで住民票を取って、仕事を探せればといった考えの人でしたが、ホームレスの人たちは2回の説教を聴くだけでただ飯タダ宿でしたから、仕事さがす気は無し、キリスト教に何の興味もないようでした。


そこで2階はそのアパートの収入源。私たち。といっても全込みで46000円ですからね。安かった。風呂もちゃんと付いていました。共同ですけど。1つは銭湯のような大きい風呂場、もう一つは
シングルルームにありがちな簡易バスルーム。ホームレスの人と一緒でしたけど、男性、女性が入れる日が交代交代であって、気になりませんでした。

2階のそこには10人ぐらいが住んでいました。
会社で仕事しているのは私とコートジボアール人エンジニア。2年の日本滞在のその人は、敬語も使える
日本語上級。やっぱ頭良いんだな〜といったエリートっぽい人でしたね。日本の6月に寒いからと暖房を付けていたのは笑えましたね〜。

ブラジルに長期住んでいる日本人カップルが出稼ぎで3ヶ月滞在していましたが、あとは外国人。
韓国人留学生2人、オーストラリア人、スイス人、オーストリア人とアフリカ2,3人でしたかね。


半年ぐらいそこで住みました。とても楽しかったです。そこで出会ったオーストリア人アーティスト
が私に日本についての質問攻めで、その頃から私が異文化について考え始めたのは。
彼女は日本語が全く出来なかったので、そんな難しいことがんばって英語で説明していました。
これも英語の訓練になりました。




もともと、日本についていろいろ考えてはいたのですが本格的になったのはここからですね。
そして、そこで韓国人留学生に日本語を教えているうちに、日本語教師になりたいな〜と思い始めましたね。
皆でご飯作りあったり、ただキッチンにいて話したり、他の人の部屋でまったりしたり。。。
スイス人のジーザスの話は聞き飽きましたが、皆仲良しでした。
ここでなんとなく外国人のコミュニケーションスタイルが日本人とは違うなと初めて実感したのですね。

ある日、仕事から帰ってくると、鍵がかかっている筈の私の部屋にあるビデオデッキが書置きと共に無くなっている。。。。

まあカギと言っても、トイレの鍵みたいなもので、コインで直ぐに開けられる。。。。。。
昔の日本ってカギをかけないで出かけたりするので、そう言う名残が残っている。


ただオーストリア人女性が自分の部屋でビデオ見たかっただけなのですが、
からしたら、人の部屋に勝手にカギ開けて入って人に聞く前に物取るか??と驚きでした。


現在この女性はDJになって、パーティーオーガナイザーで、超高級ブランドの古着屋さんをベルリンとウイーンで開いています。





私のことを気に入ったエリートコートジボアール人。。。。


私が彼氏がいるのを知っているのに、
僕は君の事を幸せにできるから、僕と付き合ったほうがいいと、一晩中説教されました。。
え〜あたしは好きな人いるし、その人と付き合っているんだよ。真剣に話し合ったけど
交渉決裂。ありえないです。



スイス人は宣教師として日本にやって来ている。それでよくジーザスの話をしては涙を浮かべ。。。もう私はキリスト教徒になる気は無しなのに
しつこい。

本人は昔ゲイで、その時代友達がエイズで何人か亡くしているんです。それでゲイを辞めた建築家です。

最後会った時は、可愛い15歳年下の中国人女性とバーゼルに住んでいました。


濃い面々が多く、

周りの住民からは異様に思われていましたね。ホームレスに外国人でしたから。。。
そしてとうとう立ち退き命令がきたのでした。。。。
日本は他人と同じでないといけないのですね〜。

みんな本当に悲しそうでした。全てのここに住んでいた住人が。私も本当に悲しかったです。
もしかしてあのゲストハウスに住んでいれば、多分もう少し長く日本に住んでいたかもしれないくらいでした。

それから別のゲストハウスに住みました。そこでまた印象的な人に出会いますね〜。

つづく。