ヨーロッパ〜日本往復日記

2001年から2003年まで二年の世界放浪の旅へ、それからどんどん価値観が変化していく様子をブログに書いています。

人生の経緯2

住んでいたゲストハウスが急に閉鎖になり、当ても無く途方にくれていると、
昔4年半ほど付き合っていた元彼氏が、少しの間だったら一緒に住んでもいいと、言ってくれたのです!

彼らは同棲していました。元彼のカップルの間に入る私って、ヤバイ。。。と今は思いますが、

当時は、住む家が閉鎖されるとの報告から一週間以内でなくなってしまって、途方にくれ本当に天の声で助かりました。


まあ元彼といってもバンドメンバーで、別れてもしょっちゅう顔を合わせていたし、
私と彼の中ではなんのわだかまりも無かったのですが、


新しい彼女は私の事を気にしていたみたいで、バンドメンバーで元彼女にしょっちゅう会うって、嫌ですよね。

私たちの関係をその目で見てみたかったと後々言っていました。


そうですよね。私も女なので分かります。彼女が彼に私を家に入れても良いよって言ったんです。






もちろん2人の世界を邪魔したくなかったので、週末はどこかへ泊まるとか、
いちを家賃を心持だけ入れていました。


私、女の子と仲良くなるのは得意なんですよ。その当時まで女性の敵を作った事は一度もありませんでした。(30代から変な女性に嫉妬される事はありましたが)




そこで2ヶ月近く、一緒に暮らしました。ホント助かりました。








その後は中野坂上のゲストハウス。6万円、一気に値段が上がります。
かなりぼろくて、46000円の家よりもずーとボロくて、ホント高かったけど、
その頃ゲストハウスはこれぐらいの値段でしたねすべて。そこは4ヶ月ぐらい住んだと思います。

秋口でした。

そこは8人が住む小さいぼろアパートで、外国人と日本人が半々ぐらい。


私が入ってすぐ次の数日後に、アメリカ人のバックパッカーが到着しました。

彼はインドからやって来て次のタイや東南アジアへのたびの前に東京で稼ぐためにやってきたのです。

彼とは意気投合すぐ友達になりました。彼は手作りで石鹸を作っています。
今では20カ国以上の国々、そして日本にも輸出して銀座のデパートなどで売っている石鹸会社の社長です。


かれは速攻でバスタと呼ばれる出店で働き始めました。


外国人旅行者が自分のが外国から買っていきた商品を装って、道端の出店で(彼は新宿)売っている。


この日本中のバスタはイスラエル人たちが仕切っていた。っていうか、彼らがこの商売のシステムを作ったのです。商売が上手いですね〜。




アクセサリー、にせもののスーパーコピーと言われるロ○ックスのでみせです。

3メートルほどのテーブルの出店を新宿道のあちこちで
見かけました。


一見売っている人本人が外国で買って、日本に持って来たように見せかけていますが、元締めは全て一緒。






その元カレのアメリカ人の直属のボスはそのときはイスラエル人と日本人のカップルでした。


日本に出入りするには、日本人女性と結婚する必要があったと言っています。

日本人女性は、このイスラエル人を彼氏と言っていました。この日本人女性も、一見普通のフリーターの女性っぽく見えて、物凄い影がある感じ。


よく海外にヒッピー系の旅人日本女子がいるけど、そういうオシャレさんでもなく、何か重い影があって、子供の頃から苦労している感じ。









この商売、2000年前後に日本で大繁盛していてね。その後は警察の取り締まりが激しくなり、無くなるのですが、


スパーコピーのロレ●クスは2万5000円、この出店のメイン商品です。

アクセサリーはあくまでも客引き、旅人が売っている感を演出しているに過ぎません。


このイスラエル人の元締めは中央線のシマを持っていました。

他のイスラエル人は日本全国に散らばって各、自分のシマを持っている。凄いですね。私はそのど真ん中に全く事情は知らずに居たのでした。


そのスーパーコピーロレ●クス2万5000円の中の元カレの受取額は5000円。


二つ売れれば、一万円になります。 

その他のシルバーアクセサリーの彼の取り分が一つ数百円で大体一晩で7000円から最高2万3000円ぐらい売り上げていました。

という事は、一晩に偽物ロレ●クスが一つから4つ売れていた計算です。平均は1日2個かな。



毎日週6で働きますから、かなりの金額を3ヶ月で稼ぐ事になります。









彼が来て1ヶ月過ぎたくらいから彼との男女関係が始まりました。
仕事から帰った後、週に3回ほど新宿へ彼の店の横で、仕事が終わるまで眺めていました。



その頃はプログラミングの仕事もデッドラインが近く夜遅くまで仕事する事が多かったので
9時から10時に仕事が終わりその後新宿直行、
平日は終電まで一緒に、週末は最後の3時くらいまでよくいました。

ただのそこに居ただけ、見ているだけですが、とても楽しかったです。
彼はとてもポジティブシンキング。
簡単な日本語を覚え、通り客に声をかける。

この新宿の夜の街でいろんな人が通り過ぎるのを見るのも興味深かったですね。

おじいさん、おばあさんのシャブ中とか、
そのときは未だ合法だったキノコティーを飲んでイッっちゃってる外国人ホステスとか。



新宿の底辺の姿というのを、見ていました。


同じ新宿に大学時代からよく行っていても、世界が違うと全く生活が交差しない。


気にも目にも入らないようです。その時、これが本物の新宿か〜〜と思いました。






この春夏秋はマニアックラブという青山にあったクラブにも隔週で行っていましたね。
お金を貯めているので、朝5時から入場料1000円に
無料のコーヒーを目覚まし代わりに飲んで。朝9時ぐらいまで踊る。
会社員がやるような生活では無かったです。


11月に入り、アメリカ人の彼もタイに出発。


この後この元カレが2度ほど、家に招待してくれてね。私に物凄く感謝してくれていて

コロラドから日本行きの飛行機代を2度払ってくれたりと、その時の日本での生活が


基本に、色んな日本にインスパイアされた商品を作っていると言っていました。



彼はその後facebookで彼の昔話を書いていたのですが、イスラエル人の元締めのスーパーコピーロレ●クスなんて
一言も書いていなく、自分は新宿のヤクザの元で働いていたと書いてあります。


まあ新宿にはヤクザの世界もあるので、イチをそのイスラエルカップルはヤクザに所場代は払っていたようです。笑。












最後12月は半月ほど会社に行き最後のボーナスをもらって
終了。この月は気分的に重かったー。

目標額が貯まり、準備万端。

新春早々、本格的に出国するまで2ヶ月以上かかりました。
バンドも旅の間休止する事にしたので、私が居なくなる前にと数日間レコーディングスタジヲを
エンジニアつきで借りて、ミニアルバム作りをしました。その後風邪をこじらせ

出国は2001年3月

行き先はタイです。


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